読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

短歌備忘録6

※2首目、3首はキビ名義で発表

 

僕の背が伸びる深夜の星空にご先祖様が見ていた光

 

廃屋の窓辺にチョコの包み紙 誰かと誰かの手が触れた春

 

隠れんぼ終わりを告げた茜空 影は一人で来た道戻る

短歌備忘録5

春は「春だ」と言うこともなくあの子を連れて海へ逃げて行くのね

 

選挙車のほざき遮る春風にのせて聴いてるギターの調べ

 

幸せの反対側のクローバー欲しがる君と探すしあわせ

縮約練習1

日経 3・18

 

福澤諭吉の学力をずばっと斬った人がいる。

榎本武揚である。

新撰組土方歳三とともに箱館戦争を戦った軍人だ。日本一の化学者を自負していた。

幕府が軍艦、開陽丸を発注したオランダで学んでいる。砲術国際法など多分野に及ぶ。

情報通信が大事と考え、下宿にモールス電信機を備えつけた。

使いなれ、相当の腕前になったという。

その通信の子孫がオランダを揺さぶった。

交流サイト(SNS)などが勢いづく。

極右・自由党の党首は「オランダのトランプ」とよばれ、感情に訴え振り回す。

選挙では、第1党もと心配されたが伸び悩んだ。

榎本武揚は「北海道共和国」をうちたてた。

日本初の選挙で、臨時政府の総裁にもなっている。通信は民主主義のいしずえだ。

デマや風評を運べば、国の行方をあやまる。

かつてない用心がいる。

短歌備忘録4

 

体重はいつも通りの僕を乗せ冬の朝だけ汗かく車

 

雨上がりアスファルトの地図踏み込めばゴジラのような顔の私

 

 

 

映画「オーバー・フェンス」を観た(あまり内容には言及しません)

タイトル通り。映画「オーバー・フェンス」(山下敦弘監督 オダギリ・ジョー主演)

を観賞しました。

 

原作の佐藤泰志『オーバー・フェンス』を、去年の秋から冬にかけて読みました。佐藤泰志を知ったきっかけは去年、北海道立文学館での特別展に関するツイートをtwitterで見たことでした。

 

それからすぐに『黄金の服』が目的で小学館から出ている文庫を購入。『黄金の服』はかなり気に入りました。そして『オーバー・フェンス』も、そこはかとない読後の爽やかさが良かったと思いました。

 

その作品が映画化され、この度当該作を含む「函館三部作」(他に『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』)を収めたブルーレイBOXが出たので購入しました。

 

映画は、原作と比べると(比較というのはやっていいときと悪いときがあるような気がするが)ヒロインの聡(さとし・♀)が冒頭から登場する点。何よりも原作には無かった「鳥」のモノマネをする女性として描かれているところが印象に残ります。

 

他にも原作と少し異なるような点が見受けられますが、必ずしも映画が原作(小説)に忠実でなければいけないわけでもないでしょう。

 

もし、原作(小説であれ戯曲などであれ)がある作品を映画化=映像化する際に、「基に忠実でなければ駄作である」というような向きがあるならそれは違うだろうと否定したくなります。

観賞する際には、映画(映像)は映画、小説(文学)は小説としてとらえる姿勢を観賞者はとったほうが幸せじゃないかなと思います。

映画に限ったものではないですが、原作があるからといって、何かの奴隷のような位置づけで鑑賞されるのは作品が可哀想に思えますし、作品の成長を妨げることにもなります。

私たちは芸術の諸分野において、時として創造者になり、ある時には享受する立場になります。

私の場合は、これまで音楽が主でしたが最近は文学(特に短歌)にシフトしつつあり、作者として携わるとき、作品は形式や句読点を打ったところで本当の「完成」には至っていないと思うことがここ最近強く感じます。

何がいいたいかというと、作品には見かけの「完成」の後に「成長」があって、その成長過程には作者も享受者も携わるということです。

ですから、普段からこうして芸術に携わるときの身の置き方といいますか、自分の立場をどうするべきかといった振る舞い方は考えておいたほうがいいのではないかなぁと思ったりするのです。

 

短歌備忘録3

信号が青から赤になるときの瞬きのような口づけする

 

春の雪行き交う街の足下に地が割れた日の残響を聞く

 

図書館で迷う児童を見つけては文豪たちが手招きをする

時間と仕事の観覧車

私は、新書を読む事が好きなので、これからはそれらの体験を通して考えたことを書いていきたいと思います。

学生時代は、読書というとほとんど新書読みに徹していました。なんで小説とか文学作品に向かなかったのかなぁと、ひたすらに学生時代の自分を張り倒したくなる次第です。

働き始めてもうすぐ2年経とうとしています。なんというか、現職に対し、働き始めた頃から違和感を感じておりまして「転職」という言葉が日に日に現実味を帯びてきた今日この頃です。かといって、自分にはこれといったスキルや資格がありません。

さてどうしたものか、となったときに、勉強するなりして足りないものを身に付ければいいじゃないか となるはずなのですが、勉強する前に「転職」関係の新書を探している自分がいました。(しかも転職関係っつったってガチガチのノウハウ本とかそういった類じゃない本)

方法的には賢くないのかなと自分でも思っていたのですが、巡り合った新書がアタリでした。

【紹介本】

福澤徹三『自分に適した仕事がないと思ったら読む本-落ちこぼれの就職・転職術』

幻冬舎新書

内容をここに書くのは正当じゃないので、読んで自由に抱いた感想を以下に記します。

著者の福澤さんは、ご自身の経験を踏まえながら、落ちこぼれ(読者)を想定して就職や転職のアドバイスを本書で伝えています。

落ちこぼれ っていうとちょっとズキッとくるものがありますが、正直に自分を落ちこぼれだと認める勇気も必要なのかなと、そうやって背中を押してくれるような読みやすさがあります。

仕事っていうのは、なにも一つの職場に定年まで留まる必要はないんですよね。その点をあらためて実感させてもらいました。

仕事を辞める(変える)理由は何だっていい。それが「つまらないから」や「他に興味があることができた」や「なんとなく」でもいいのではないでしょうか。

私の場合は「他に興味があることができた」に該当する部分が転職理由の大部分を占めておりまして、それを上手く伝えるのが今後の課題。

頭では分かっているんですけどね、体が動かないというか実行に移せない。

ひたすら「こうなりたい」と「こうやるべきだ」がグルグルと観覧車のように頭の中でまわっている。そういう感覚にとらわれます。

そうして気づいたら時間が経っていて、3年、5年、10年となってついには「ベテラン」なんて呼ばれる歳になっていたらもう最後。転職なんかできそうにもない気がしませんか。これが本当にこわいんです。

 

転職・退職理由は何だっていいんですけど、後さきのことを考えてないといけないってのも不安の一つです。転職先を決めてから辞めるというパターンが私の理想です。

実は今月、2社ほど面接を受けてきました。結果は見事に両社とも不採用。

これは原因が大体わかっておりまして、1つは「志望理由が明確に伝えきれなかった」こと、2つ目は「スキルが求められているものに満たなかったこと」だと分析しています。(2つ目に関しては、資格について履歴書に記載しているのだから書類選考段階で落とされてもいいとおもうのですが)

せっかく与えられたチャンスを無駄にしてしまった感が否めないのですが、こういうときこそ、何かを得なければ次は本当に無いんではないかと思います。

理想のパターンを実行できるように、2017年12月末までの退職を目標に次の転職活動を展開していく予定です。

 

不安と焦りの観覧車から降りることができるように、紹介した本の再読や自己分析を丁寧にやって行きたいと思います。(ちなみに私は学生時代まともな就職活動を経験していません。面接対策しないで受けて受かったとこに入ってしまいました。)

 

自分に適した仕事がないと思ったら読む本―落ちこぼれの就職・転職術 (幻冬舎新書)