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映画「オーバー・フェンス」を観た(あまり内容には言及しません)

タイトル通り。映画「オーバー・フェンス」(山下敦弘監督 オダギリ・ジョー主演)

を観賞しました。

 

原作の佐藤泰志『オーバー・フェンス』を、去年の秋から冬にかけて読みました。佐藤泰志を知ったきっかけは去年、北海道立文学館での特別展に関するツイートをtwitterで見たことでした。

 

それからすぐに『黄金の服』が目的で小学館から出ている文庫を購入。『黄金の服』はかなり気に入りました。そして『オーバー・フェンス』も、そこはかとない読後の爽やかさが良かったと思いました。

 

その作品が映画化され、この度当該作を含む「函館三部作」(他に『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』)を収めたブルーレイBOXが出たので購入しました。

 

映画は、原作と比べると(比較というのはやっていいときと悪いときがあるような気がするが)ヒロインの聡(さとし・♀)が冒頭から登場する点。何よりも原作には無かった「鳥」のモノマネをする女性として描かれているところが印象に残ります。

 

他にも原作と少し異なるような点が見受けられますが、必ずしも映画が原作(小説)に忠実でなければいけないわけでもないでしょう。

 

もし、原作(小説であれ戯曲などであれ)がある作品を映画化=映像化する際に、「基に忠実でなければ駄作である」というような向きがあるならそれは違うだろうと否定したくなります。

観賞する際には、映画(映像)は映画、小説(文学)は小説としてとらえる姿勢を観賞者はとったほうが幸せじゃないかなと思います。

映画に限ったものではないですが、原作があるからといって、何かの奴隷のような位置づけで鑑賞されるのは作品が可哀想に思えますし、作品の成長を妨げることにもなります。

私たちは芸術の諸分野において、時として創造者になり、ある時には享受する立場になります。

私の場合は、これまで音楽が主でしたが最近は文学(特に短歌)にシフトしつつあり、作者として携わるとき、作品は形式や句読点を打ったところで本当の「完成」には至っていないと思うことがここ最近強く感じます。

何がいいたいかというと、作品には見かけの「完成」の後に「成長」があって、その成長過程には作者も享受者も携わるということです。

ですから、普段からこうして芸術に携わるときの身の置き方といいますか、自分の立場をどうするべきかといった振る舞い方は考えておいたほうがいいのではないかなぁと思ったりするのです。