影の断片

夜勤のアルバイトが終わりに近づくころ、僕は店内に差し込む朝陽と共に入店してくる客たちを相手にレジ打ちすることで精一杯だった。
彼らはいつ見ても、生気のない顔をしていた。目はとろんとして、皆視点がどこにも定まっておらずうわついている。

僕はそんな彼らの姿を見るのがとても不快だった。というのは、昔の自分の姿を見ているようで、思い出す必要が無い出来事が頭のなかでざわついてくるからだ。
僕は大学卒業と共に就職し、1年程証券会社で働いた。働いている間、僕の背後からは影が伸びていて、それが僕を包み込むような場面が何度となくあった。
その影は僕の後ろにいるはずなのに、寝ている間は夢に出てきて真正面から詰めてきた。
「お前はなんで生きているんだ? このままでいいのか?」そんな言葉を吐きかけられ、気がついたら僕は会社を辞めていた。

転職しても結果は同じだ。僕は働くことに向いていない。けれど生きていく以上何かで生計を立てなければならず、適当にコンビニの夜勤を始めた。
僕は最初から、夜勤バイトに対して賃金以外の何かを求めてはいなかった。と言えば噓になるかもしれない。あまり人と関わらずに済むだろうか、という期待は少しだけ抱いていた。
その期待は裏切られた。会社に居た頃と変わらず、「信じない」ことを強要され、いつしか他人の影まではっきりと自分の眼に映るようになっていた。

客の大多数は、態度が悪い人間だった。カウンターに籠を乱暴に載せる者や、こちらが言葉を発する前から舌打ちをして苛立つ者など、皆身勝手だった。
客たちの背後からは昼夜問わず影が伸びていた。僕はそんな彼らにとって、一時ばかりの召使いになる。
「仕事なんてそんなもんだ。とりあえず頭さげてりゃあいいんだよ」働いていた頃上司から言われたことを、レジ打ちの度に思い出していた。


そうやって、バイトの日々は過ぎて行った。このままどうしようもなくなるまでバイトを続け、自分が自分に飲み込まれるまで生きていくしかないのか。
影は会社に居た頃に比べれば薄れていたが、その存在に相変わらず怯えながら生活するしかなかった。

 

四月に始めたバイトには3ヶ月経つと慣れた。その頃から綺麗な娘が客として朝のコンビニへやってくるようになった。
その娘は黒の長髪で鼻筋が通っており、薄い桜色の事務服を着て凛としている。僕は、レジを素早く打ちながらも彼女を観察した。
不思議なことに彼女からは一切、影が伸びていなかった。彼女が来るたびに確認したが、変化は起きない。明らかに、他の客とは異なっていたのだ。

それからというもの、彼女に会うのがバイトの楽しみになっていた。影が無い人間を接客するのは気が楽だ。何より、彼女の容姿が僕の好みだった。
1日、また1日と日数を重ねるごとに僕は彼女と過ごす時間が増していることを喜んだ。時々、つり銭を渡す時に触れる人差し指や親指の感触が僕を勇気づけた。
「今日もお勤めご苦労様です」と僕は意を決し彼女に話しかけた。すると、
「ありがとうございます。店員さんもお疲れ様です」とはっきりとした口調で明るく彼女は答えた。容姿に合う人物で、僕の見立ては間違いないと確信した。


告白をしてきたのは彼女の方からだった。いつものように彼女は、ミニサラダとカップ春雨スープ、それからヨーグルトを持って僕が立つレジへ颯爽とやってきて
「これ、よかったら」と名刺サイズの白い紙切れをカップの蓋に載せて僕に渡した。その表情は今まで見た彼女の中で最も頬に赤みを持っていた。僕は礼を言い、その場で内容をじっくりと読みたかったが、彼女の後ろに客が三人も控えていたので慌てて制服の右ポケットに紙切れを突っ込んだ。

夜勤を終えてアパートに帰り熱いシャワーを浴びたところで心が落ち着き、ソファに座りながら彼女から受け取った紙切れの中身を読んだ。
そこには僕に好意があること、そして良ければ連絡が欲しいという言葉と共に、彼女の携帯電話番号が記載されていた。僕は自分から言い出す前に、意中の人から告白をされたのだ。彼女は昼間に働いているだろうから、夕方以降に連絡をしようと決めて布団に潜った。

だが、なかなか寝付けなかった。僕の影は、普段と異なる形で僕を包み込もうとしていた。

僕は恋愛で良い思いをしたことがない。それまで、大学時代に一時期付き合った女の子とも、手を握って歩くだけで精一杯だった。これから始まる大人の恋愛には、セックスが付きものだというのに23歳の僕はそれを童貞のまま迎えることになる。友人は「そんなの気にするなよ」と肩を叩いてまで励ましてくれたのだが、僕はとても気にしていた。
自分の平凡な親でさえ、平凡な生活の中でセックスをして僕を作ることができたというのに、僕はそれすら、その真似事すらできない。これじゃあ欠陥品じゃないか! と心の中で叫ぶことがしばしばあった。
影はそんな僕の臆病を見過ごすわけもなく、付け入ろうとしていた。卑怯なことに真正面からではなく足元から僕に忍び寄っていたのだ。

午後6時半を過ぎたので、紙切れを手に取り彼女の携帯番号にかけた。3コール鳴ったところで「はい、門田です」と彼女の声が聞こえた。今朝コンビニでお会いした店員の松村ですと僕が告げると、彼女は僕が連絡を寄越したことに喜んでいた。彼女は、すぐに職場から自宅に向かい、今から15分くらいで着くと言う。早口で喋る彼女の住所を聴き取りメモに控えて部屋を出た。

彼女の住まいというのは、僕のアパートとさほど変わらず築年数が30年は経過しているように見える建物だった。
錆びついた手すりがついた階段を上がり、2階にある彼女の部屋に到着した。間取りも僕の部屋とさほど変わらない6畳一間。若い女性には少し可哀想な気がした。

彼女は僕を笑顔で出迎えてくれた。そこまでは順調だったと言えるだろう。この後僕は何を想ったのか、今思い返してもわからないのだが頭よりも口が先に動いていた。

「僕、童貞なんです」その一言が決め手だった。彼女の部屋に入って簡単な自己紹介をしてから間もないうちに、僕はベッドへ招かれ押し倒された。
身体はシーツと密着し、普段の彼女の匂いであろう石鹸の薫りが枕元から漂う。
そうこうしているうちに、彼女が僕のベルトに手をかけるガチャガチャとした音が聞こえ、人生で初めて、僕は性器を異性に見せてしまった。
「じゃあ次はあたしです」と言って彼女は真っ白なTシャツを脱ぎ、その乳房を露わにした。そこで僕は、自分の下半身に熱い存在を感じ、同時に足元でクスクスと笑う影の声を聞いた。「どうだ? こわいのか?」と。

彼女は僕の性器を口と手で交互に愛撫してくれた。それも初めての経験だったが、この後の流れは大体分かる。予習をこれまでに幾度もしてきた。だから意識が快楽で飛んでしまわないうちに、次のステップに移ろうとして僕は身体を起こした。
「あの、どうして僕のことを?」恐る恐る尋ねると、「眼が」と彼女は言った。
「眼?」僕は聞き返した。眼が一体なんだというのだ。僕は生まれつきの一重で中肉中背の、モデルのような容姿ではない。

「眼が澄んでいて、素敵だったからです」と僕の股間を見詰めながら彼女は言った。意外だった。僕は彼女以外のコンビニ客と変わらず、影を身にまとっている生気のない人間だと自認していたから。
「私の、死んだ弟に似ていて、あなたは澄んだ眼をしています」彼女はそう言うと僕の首筋に頭を寄せてきた。
「弟は仙川のマヨネーズ工場で働いていました。それはもう、バカが付くほどに真面目で、あなたと同じように澄んだ眼をしていました」
彼女の吐息による温かさと、僕の胸に触れる彼女の乳房のせいで、話が半分入って来るようで入って来なかった。彼女は話を続ける。
「その真面目のおかげで、彼にはお似合いの可愛い彼女ができました。本当に幸せそうで、見ている私の方も幸せでした」僕は想像した。幸せな生活を送る弟と、その様子を笑顔で見守る姉の姿を。
彼らの姿には影の断片すら感じられなかった。僕はその光景に少しだけ嫉妬をした。

「ですがある日、2人は無理心中をしたのです。そこから私は心の中に鉛のような存在を感じるようになりました」
同情でもしてやればよかったのだろうが、僕は出来なかった。そこで僕は、次のステップに移りたかったのもあり、「それで?」と言った。
「え?」彼女は戸惑っていたが、事情を察したようで起き上がり今度は仰向けの僕に対して馬乗りの体勢になった。
僕は彼女の乳房を、果実のようにもぎ取ろうと手を伸ばした。すると彼女の股間からすぅっと伸びる影を見つけた。
そこで僕は彼女の秘密を知った。彼女はずっと、自室から外に出ている間は影を心の中に押し込めていたのだ。

「もう隠す必要ない。これからは僕がきちんと、受け止める」こんな台詞を吐く自分が不思議で仕方がなかった。その後は身体の赴くままに、僕たちはお互いの影をはぎ取るようにして貪りあった。

時計の針は24時を回っていた。ベッドの上で激しく動き、身体は汗でべたついているのに、気だるく感じることがない。僕も彼女も互いに3回程射精し、影はいつの間にか消え去っていた。
僕は、彼女と秘密を共有することになった。そのことが僕に自信を与えてくれた。そして、僕は良い意味で彼女に噓をつかれた。まぁ許す。今更「彼」と呼ぶわけにはいかない。

これからは、誰かと想い合いながら生きていくことができる。あのコンビニの客たちにはどこに行っても買えない「愛」を僕は見つけたのだ。

この話はきっと、聞いた人に気持ち悪がられるだろうから秘密にしておきたいのだが、今あなたにしてしまったのではどうしようもないかもしれない。まあそれでもいい。もう僕は何かを隠せるような影を持ち合わせてはいないから。

 


(了)