祭の日に

 久しぶりにということでもないが、東京へ出かけた。

 今回も演奏会を聴くことが主な目的であったのだが、お世話になっている先輩が住んで居り、またお気に入りの飲み屋がそこに在る仙川に立ち寄った。

 その日は晴れており、私の地元同様に蒸し暑かった。けれど、東京の暑さと東北の暑さは違う気がする。はっきりと、これだ、という決定的な根拠を示す勇気は無いが身体が感じるものとして「体当たりされるような」感触を得るのが東京の暑さ。

 対して「じわりと寄ってくるような」感触を与えるのが東北の暑さだ。

 

 駅の改札を抜けると、すぐに陽の光を浴びた樹木が視界に入る。この木々を、私はもう何度となく見てきたはずなのだが、その日は一段と輝いて見えた。

 街もその日は装いを日頃より一段と華美にしていた。祭りの日だった。

 無機質なタイルのような街の路地を歩くと、そこには若者たちが溢れている。その日限りの騒がしさの中に、自分たちの胸騒ぎを(それは青春と呼ばれる物だろう)重ね合わせているようだった。彼らの目つきは、どことなく何かに飢えている。

 思えば自分も、友人と祭りに出かけたころ、そのような気分を自覚したことがあった。その感情の根拠に、性欲が漲っているのか(これは安直すぎるかもしれない)、それとも誰かと一緒に過ごさなければならないという強迫観念なのか、今となってはわからない。

 

 自意識過剰だ、とよく親族に言われる。私はこれまで、目が覚めている内の大半を、他人の視線を気にしながら過ごしてきた。高校3年を終え、浪人生活で過ごした1年間が特に酷かった。予備校の門を出た途端、地上を歩くことがとても窮屈に感じ、地下道を通って(土竜のように)登下校をしたものだった。

 人数のある路を歩くと、誰かとすれ違う。そのたびに気にしてしまう。

 あの仙川に居た彼らも、どこかで他人の視線を気にしていたのではないか、とこの文章を書きながら思いを強くしている。

 

 

 自分たちの気が付かない(青春の)耀きを、彼らが見過ごすことが無いように祈る。